日本の民主主義は死に絶えたのか

民主主義とは、いとも簡単な様にも、一見、錯覚しそうになるが、本当に各人、それぞれが簡単な思いつきや、漠然としたものではなく、常日頃、勉強をしなければ、良い方にも、最悪の結果をも招いてしまう、その様なものではないだろうか。それぞれ、日々の生活はあるのだろうが、そういった事を言い訳ではなく、真剣に考える段階に、今、現在、きているのではなかろうかといった事を、別段、説教くさく、壇上から言っているのではないのだけれども、例えば、本当に、例として取り上げて申し訳ないのだが、歴史を各人が勉強したのか、デマゴーグではないのだろうか、自分は果たして、日々の生活も勿論、大切であるが、くどいようだが、人間は、単純な思考や、思いつきに陥り易い、

昭和天皇ヒトラーと同列に…ウクライナ政府“公式”アカウントが動画投稿、日本政府の抗議受け削除(2022年4月25日)

実際、経済の視点から言えば、昭和恐慌から、2.26事件が起こり、国家社会主義、その核となる存在を必要とする、または、した、それを天皇とし、当時のありもしない天皇陛下は神様であるといったデマゴーグを捏造し、天皇陛下万歳とやっていた、またはやらされていたわけであって、但し、本当に注意深く考えなければならないのは、当時のある一定の知識人達が、そういった事を信じていたとは、いくら考えても、どうしても、無理がある、何かしらの打算や、そういった手法で、事実をねじ曲げて、正当化し、戦争へと駆り立てて行った訳であるから、たとえどのような理由があったとしても、その後、日本にいる人々が、その責任や、その他を真剣に考えて、様々な複合した視点で、問い続けてきたのかどうか、その後、経済成長がどうだという事は、ひとまずおいておいて、歴史は教訓としなければならないのだろうし、誰だって、物質的な豊さや経済の繁栄は、心を惹きつけて止まないものだっただろうし、今後もそうであろうが、それを言い訳とするには、危険が伴うものであろう。人々は言論の自由を、成熟させる様に努めているのだろうか、例えば、当時、天皇を神様だと信じていた、単純な思考の持ち主だった様に、一見、捉えられがちだけれど、また映像でも、一面でしか映し出されない様だけれども、時には、英雄として、また、悪役として、兎にも角にも、現在の日本へと目をうつしてみれば、子供を守れだとか、社会が人を育てるだとか、それがだめなら、安倍政権からの、一億総活躍だ、次は新しい資本主義だとやっていて、その次は、競争社会だ、階級社会だとも、繰り返しやっていて、国民総懺悔、ポツダム宣言を受け入れる形で、二度の原爆と共に、終戦を迎える事となった、しかし、その最たる国が、その後の原子力政策によって、三度、経験する事ともなった、考え方としては、何故、二度も、核を経験する事となった人々が、また再び核を必要とするのだろうか、民主主義、唯一、自分の意見を反映させる事のできる、その手段を疎かにしてはいないだろうか、当時からは、確かに技術や物は進歩もしただろうが、しかし、隣組とよばれる、それこそ、名こそ違えども、自治会といった形では存在していて、それを巧妙に偽装し、利用する手段には非常に長けていて、隠蔽し、捏造している訳であって、子供や青年を利用し、既にオリンピック誘致の時点で、それを支持する人々は、知ってか知らずか全体主義の片棒を担いでいたのだろうか、望もうが望まなかろうが、客観的には協力者となってしまっている恐れがあり、安倍政権以来、とりわけ拍車がかかり、恐らく、例えば、昭和恐慌、社会主義、昭和30年代から、確かに、物では進歩したのだろうが、その、全体主義の構造は、何ら変化してないのではなかろうか。